業界の実際

●晴れの舞台でのウエア【3】

93年からノルウェーチームに対してウエアをサプライし始めたのだが、ここで二段階の提供が行われた。
最初は前年踏襲型のウエアが送られた。これで世界選手権までのワールドカップ前半戦を戦ってもらう。
2月の世界選手権では本命企画のウエアがお目見えするというやり方なのである。
前半用はアルベールビル用ウエアで確立した「何だか分からないけど無地ではない柄」を使用していた。
それに対して世界選手権以降は業界他社の度肝を抜く、「先染めジャカード」を表素材に使用したのである。
私は直接の担当ではなかったので細かい経緯は知らないが、プリントの技術は既に他社にも使われていて、その範囲では確かに他と差をつけることはかなり難しかったのだと思う。

ジャカードというのは織り自体で柄のパターンを表現させる技法で、「先染め」となると糸を先に染めてあって、その色の組み合わせと織り組織の作り方で柄を表現するのだ。
先染めで代表的なものは西洋の例で言えば「ゴブラン織り」、日本の例で言えば舞台の「緞帳」である。小さいものではネクタイの柄などによく用いられる。
当然、「後染め」という技法もあり、こちらは染めの入っていない生成りの糸の織り組織で柄を表現し、後で染めるのだ。
無地一色もあればプリント柄をのせることもできる。そういえばストーンウォッシュもあった。
他社は基本的には「後染め」にしか手を出さなかったと思う。
「後染め」が従来のスキーウエア素材の延長線上のものにしか見えなかったのに対して、「先染め」は明らかに異次元の存在感を放っていた。
P社で使ったものは表面がざっくりとした感じで、例えて言うならばカーテン生地のような厚さ感で、きらきらしたラメ糸まで織り込んでゴージャスそのものであった。
このざっくりした素材をスキー用途に耐えられるようコーティングを施し、撥水加工も行う。世界でも類を見ないものだ。
その分、価格もゴージャスでアウターウエア上下で確か8万円前後であったように記憶している。
そんな価格の高さをものともせず、このモデルも良く売れた。
本当に勢いのある時代はすごい。このウエアを購入しようと必死にアルバイトした学生さんも当時かなりいたのではないだろうか。

素材を作ったのは山梨にある機屋で非常に高い技術を持っている会社だ。
巨大な緞帳まで製作できる大型の機織り設備を持っていて、ほとんどあらゆる柄を表現できるというのだ。
ジャカードの織り柄を決定するのは一種の型紙で「紋紙」と呼ばれる。
ネクタイのようなものは小さいパターンの繰り返しなので紋紙も小さくてすむが(リピートが小さいという)、大きなモチーフを表現する柄はそれだけ大きなものが必要となる(リピートが大きいという)。
究極は舞台の緞帳で巨大な面積に「ひとつの絵」を表現する場合。ワンリピートで全面をカバーするので紋紙の情報量たるやすさまじいものになるという。
話は平面上の色の配置では済まない。糸の織り成す複雑な凹凸の効果まで計算して織り組織を決定する紋紙を作っていく。
この紋紙を作る職人という人がすごいのだ。
どんな柄、効果を出したいのかという要求に応じてバンバン試作素材の紋紙を作り、試作の織りを行う。
数日でこれらの作業を行い、カラーバリエーションまで作ってしまうという超クイックレスポンスだった。
日本にこの技あり!といわれるに十分な仕事であったといえる。

雫石の世界選手権には当然素材を作った機屋の人々も招待されていて、生で表彰台に上がったウエアを見たのだ。
「うちで織った生地が表彰台に上がっている!」と感動に打ち震えていたという。
アルベールビルの時も、ウエアを縫った工場の人たちはオリンピックの中継を見て、「自分たちが形にしたウエアが世界の桧舞台で脚光を浴びている」とこの上ない感動を味わったという。
モノ作りを仕事とする人の味わえる極上の感動がそこにはあったのだ。

さらに94年にはノルウェー地元開催のリレハンメルオリンピックがあった。
このオリンピック用のウエアでは切りかえでノルウェーの国旗を表現するという、ナショナルチーム用としてはデザインの最終手段を使ってしまう。
このときも先染めのジャカードでわざと一見一色に見えるように生地を作り、裁断・縫製してノルウェー国旗の十字の形を作った。
やはりこのオリンピックでも地元ノルウェー勢が表彰台に上り(男子アルペン複合は表彰台独占!)、地元開催のオリンピックで地元選手が国旗をモチーフとしたウエアを着ていたという、これまたよくできたストーリーを演出できたのだ。

実はあまり知られていないが、このオリンピックでの入場行進で選手団の着ていたコートをP社が作っていた。
スキーだけではない、全競技の選手・役員が着るものである。
ノルウェーに送る前に、一度本社に取って「誰用」なのか名札をつける作業があって、私も少し手伝ったが、ものすごい量のウェアであったと記憶している。
会社の一部屋(一番大きいミーティングルーム)が完全に埋まってしまった。
「これを全部タダで提供するのか…」と会社で話したものだ。
ここまでやれば、当然というかP社の社長(当時)も入場行進ご一緒にどうぞと、ノルウェーからお声がかかった。
その後、社長はノルウェーへ多大なる貢献があったとして、王様から勲章を送られている。
(当時、Skiジャーナル誌などに掲載されていたので、あるいはご存知の方もいるかもしれない。)

しかし、ゴージャスなウエアがバカバカ売れたのもこの頃が最後で、次のモデルからかなり販売上苦戦を強いられるようになっていった。
確実に時代は変わりつつあったのだ。
長野オリンピックの頃にはすっかりスキー市場は衰退してしまっていて、よくR社もがんばって作ったものだと思う。
(ジャンプの団体戦で思いっきり映っていた黒と黄の切りかえの入ったウエア)
この年、スキー以外にも全種目に対して表彰式用のウエアが別契約となりM社が製作した。
覚えている方もいるかもしれないが、紺色のフライトジャケット風のウエアである。
全種目で表彰台に上った選手に着用されたが、これはスキーウエアのプロモーションではなくM社の会社としてのプロモーションであった。
もはや、スキーだけのプロモーションとしては成立しなかったのだ。
このウエアは一般販売されたが、予約による完全受注生産としたところが上手いやり方である。

以後、日本のナショナルチームのウエアはM社が継続して供給している。
他のメーカーはその余力もなく、またメリットも見出せないのだ。

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