業界の実際

●晴れの舞台でのウエア【1】

表彰台で着ているウエアというのはメディアへの露出が多いためメーカーにとっては良い宣伝の機会となる。
オリンピックともなればもう世界的な規模で、さらにスキーに興味のない人まで見る可能性がある。
しかしながら、表彰台でアピールできるかどうかは着用選手が成績を出せるか否かにかかっており、ある意味ギャンブルに近い。
じつにリスキーな世界で、選手に着せるだけでひとつのハードルを乗り越えねばならず、怪我でもされたらそれまでの努力は水の泡となるのだ。

メーカーから言わせると表彰台で着用されていても、ウエアが実売につながるかというと必ずしもそうではない。
2005年現在の状況でいえば、スキーウエア自体に多数の実売がないので本当に厳しい時代である。
しかし、1990年代はスキーブームも絶頂を迎えていて、流行の中心が競技ウエアに移ってきた頃であった。
細かく言うと89年〜91年頃はデモンストレーターに代表される基礎スキーが全盛で、92年〜95年頃はアルペンレーシングのナショナルチームウエアが隆盛を極めた。

さて、日本のスキーナショナルチームのウエアであるが、他国とはやや異なったやり方をとっている。
普通は、ある国にスキーのナショナルチームがあったとするとウエアは全てお揃いのものになるものだ。
細かいグローブや帽子、プロテクターなどは選手個人の契約になるが、ボディに着用するメインのウエアはとにかくお揃いというのがグローバルスタンダードなのである。
それに反して日本の場合は、アウター(一番外側に着用する保温目的のウエア)のみお揃いにして、それ以外は選手個人の契約メーカーのものを使用している。
これはセーター+パンツの時代から現在のワンピース時代まで一貫して同じ区分けとなっている。
日本の場合は実業団的なチーム構成で金銭的にもメーカーが強い発言権を持っているからであろう。
メーカーといってもグッズメーカーの方がイニシアチブを握っていて、使用マテリアルのメーカーとつながりの深いメーカーのウエアを着用するのが一般的であった。
例えば、P社はかつては国産スキーメーカーY社の選手に着用されていた。
D社のウエアはSAJとつながりが深く、O社のスキーを履いている選手が多く着用していた。(今でもそうか…)
A社はかつてA社のスキーを扱っていたため当然選手にもセットで提供していたのだ。
現在A社スキーを使用する選手の多くはP社のウエアを着用しているが、これは業界が再編されているということのあらわれでもある。

さて、90年頃まではあくまで選手契約メーカーがそれぞれ作るのが建前になっていた。
それでは、お揃いのウエアをどうするかというと、あるメーカーのデザインが選定されてそれにスキー連盟が配色を指定する。
選定されたデザインのメーカーは各社にパターン(型紙)と縫製仕様書を送り、メインの材料も手配し、それぞれのメーカーが作ることになる。
すると、ぱっと見は同じなのによ〜く見るとメーカーロゴのワッペンやボタン・金具などが違ったウエアが出来上がってくるのだ。
これはこれで結構面倒くさいやり方だが、思えばコクドのスキー場職員のウエアと同じやり方であって、各社に必ず仕事が回ってくる日本的なシステムだ。

ところが、92年のアルベールビルオリンピックを控え、ジャパンナショナルチームのウエアは一社で全て製作するよう方向転換がなされた。
当然のように、各年各社持ち回りでナショナルチームに供給するという取り決めとなって、何年がどこのメーカー担当かはクジ引きで決められた。
92年のオリンピックに向けての話なので、91年にクジ引きが行われた。
このときのクジ引きはその後のリレハンメル、長野のオリンピックの担当メーカーが同時に決まるというすごいものであった。
さて、その結果は…
いきなりのアルベールビルはわれらがP社。
注目の長野はウエアを片手間でやっていると思われていたR社であった。
社内では、最も盛り上がるであろう地元開催の長野がR社って大丈夫か?などと話していたことを思い出す。(失礼!)

クジ引きの行われた時はオリンピックのウエアをサプライしたところで、一体どれだけ売れるのだ?ときわめて懐疑的な反応が多かった。
しかも、P社はいきなり一番手でオリンピックの舞台に出さなければならない。
どうなるかというと、普通は契約選手だけに用意すればよかったものがSAJ傘下の種目に出場する選手に全てサプライしなければならないのだ。
アルペンだけでなく、ノルディック(距離、ジャンプ)、フリースタイルと、スキーと名のつく競技全てが対象となる。
はっきり言って実売に結びつくかわからないものを通常の何倍もの数量用意するというのは普通に考えると負担でしかなかった。
クジを引いた担当者は帰ってからいろいろ言われたらしい。

担当は私ではなかったのだが、開発の流れはこうだ。
日本風の表現をしようというのがまずキーワードとなった。
「日本風」ということで出てきたのが藍の絞り染めであった。
スキーウエアの素材でムラ染め(スキーウエアの場合絞って染めるわけにいかないので、わざとムラの出る染めを行う)を行うという技術的挑戦を行ったのである。
全身ムラ染めではちょっと持たないのでムラ染めのように見えるプリント柄を開発して両者を組み合わせたのであった。
この柄もよく見ると縦横に方向性があり、にじんだチェック柄になっていた。
当時、社内ではこれからストライプやチェックのような単純な方向性のある柄が流行るとされていて、その方針と和風の掛け合わせというわけである。
さらにそのプリント素材には七色に輝く箔がのせられていた。
これは後になってトレンド分析にのせると、はっきりとモチーフ(=柄の絵で表現しているもの:花柄の場合は花)を表現したプリント柄と無地染めの中間的な表現ということになった。
「何だかわからないけれど無地ではない柄」というジャンルを開拓することになったのであった。
これが以降2、3年にわたってナショナルチームモデルのみならず、スキーウエアの売れ筋を支配したのである。

晴れの舞台でウエア【2】に続く

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