説教の記録(111-120)


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111:2005年9月10日「スキーと安定した職業」

112:2005年9月29日「ポジティブな言葉」

113:2005年10月4日「理系・文系の内容がが混在しているスキー専門誌」

114:2005年10月12日「体育の日―子供の体力」

115:2005年10月25日「新潟中越地震から一年」

116:2005年11月5日「価値観崩壊」

117:2005年11月14日「子供を取り巻く環境の変化」

118:2005年11月21日「テーマは侍」

119:2005年11月27日「ガンダムとステンマルク」

120:2006年1月9日「豪雪と景気回復」

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前回の説教で「お勉強の点数」以外の様々な価値を認め合う社会になっていけば、テストの点数だけで振り回されることもなくなってくるのではないかと申し上げました。
結局のところ学校の進む方向性・価値観を左右するのはそれを取り巻く社会の価値観であるというのは明白です。
とはいえ、スポーツに人生をかけられるというような価値観は多くの人が持てないのが現実でしょう。


ただ人がスポーツをしたとしても、それ自体に生産性はないので、当然のことながらスポーツは芸能・芸術と並んでちゃんと食っていける人数が本当に限られる分野です。
生産性が生じるとすれば、他の人が金を払ってまで見たくなるようなプレーをするか、金を払ってまで教わりたくなるような教え方をしなければなりません。
用具の提供や環境の整備などとなるとスポーツ自体というより周辺の仕事といえるでしょう。


以前の説教でも申し上げたとおりスキーで一生食っていけるかという問題に対してポジティブな答えは得られません。
大体にして、スポーツというだけで難しいのに、ウインタースポーツとなると、季節にも制約されます。
わが子に安定した人生設計を望む普通の親はスポーツに人生をかけさせたりしないのも無理はありません。
ましてや(普通は)年間行うことのできないスキーなどとんでもないと思うことでしょう。


しかし、これだけ変化の激しい世の中で安定した職業などといえるものはあるのでしょうか。
安定感があると思われた職場も大きく変化することを迫られ、場合によってはそれ自体無くなってしまうこともあり得るのです。
教育によって本当に身につけさせるべきことは、不安定な中でいかに自分で考えて進む力ではないでしょうか。
それは型にはまらず、柔軟性が求められます。
どうでしょう。スキーの練習とちょっと似ていると思いませんか?

05年9月11日に衆議院選挙が行われました。
結果は自民党の圧勝、というより小泉首相の圧勝でした。
選挙戦の進め方が上手いとか、演出が上手いとか言われていますが、「これから何か動かしそうな期待」を明快に感じられたからではないかと思います。
ここで政治的にどうのこうのということはサイトの趣旨と外れますので、深くコメントするつもりはありませんが、この事例からスキースポーツ的に何が読めるか考えていきたいと思います。

現在、日本国内は問題山積です。
その中で、象徴的に郵政民営化法案に対するYES or NOに焦点を絞ったことがこの選挙の結果を決めたということでしょう。
多少話はずれますが、現在のように客層によって好みが大きくばらつく場合、商売上はどこかの客層に焦点を絞って仕掛けることが良しとされています。
今回の選挙はこうしたマーチャンダイジングの考え方が取り入れられたものといえます。
潜在的に不満がある場合、それを打開する(しそうな)提案を最も現状に縛られない層にアピールするのです。
はっきり言って社民党の憲法護持などは「現状維持」にしか見えなかったわけです。
無党派層が民主党から自民党に大きく乗り換え、その他の党は蚊帳の外という状況はまさにこのやり方が当たったからでしょう。

ここで重要視したいのは、「改革を進める」という表現です。
今回選挙で負けた勢力の多くは「郵政民営化には賛成だが、この法案には反対」とか、「小泉首相のやり方には反対」、「憲法改正には反対」、「小泉改革には反対」という表現を使っていました。
話は単純です。
「反対」とか「○○に対抗する」という表現は非常にネガティブな響きがあります。
それに対して「改革を進める」というとポジティブな響きになります。
人間ポジティブな言葉を聞いた方が行動が強く起こるものです。

スキーでも同様、アドバイスはポジティブな表現が不可欠です。
「良くなった!」という単純なものから、「○○すれば良くなる!」というものまで色々でどの表現を使うかは、相手によってのさじ加減です。
また、自分でできないと思っていることは大抵できません。
自分で「○○できる!」とポジティブに考えることが必要なのです。

9月25日発売のS.ジャーナル誌をみていて、ふと思ったことがあります。
巻頭メインの特集は基礎スキーヤーの滑りを事細かに解析して、内脚の使い方と骨盤の方向性に二つの傾向が見られる…という内容です。
次の記事はWCレーサーの滑りを見ながら、ポール云々いう以前の基礎的な動きを考える内容です。


スキーを良く知らない人が見たら、どちらも滑りの連続写真が載っていて、一般人には分からない専門用語で難しい話をしていると思われるかもしれません。
元々スキーを知らない人は対象にしていないのだから気にすることはないかもしれません。
しかしこの二つの記事は、根本的に目的が異なっています。
巻頭の記事は「基礎の大会で高得点を出す」「検定に合格する」のが目的です。
言い換えるならば、ジャッジする人の目にいかに良く映るかが問題なのです。(要するに対人関係)
二番目の記事は「タイムを出す」あるいは「タイムの出る合理的な動きを身につける」というのが目的です。
これも言い換えるならば、時計で計った時に、いかに短時間で滑るかが問題だということになります。(要するに物理問題)


このように、代表的なスキー雑誌は文系と理系の記事がごっちゃになっているのです。
しかしこれは色々な志向のスキーヤーがいるのだからそれぞれに向けて紙面を作っているというでしょう。
こうした混在した状況が悪い方向に働いたのがネット上のこれらの雑誌の掲示板でした。


中にはS.コンプのようにタイムという物理問題に的を絞って他には目もくれないというものもあります。
あれだけカラーページが少なく、版も小さく薄いのにジャーナルやグラフィックのような値段という雑誌が存続し続けるのは、物理問題であるスキー以外はまったく扱わないためでしょう。
目的が明確に絞られているのです。


ただ、紙面の表現スタイル幅は小さく、大体は連続写真でそれに関しての解説というものです。
静止した印刷物で動きを表現するための技法としてはこれしかないのかもしれませんが、何か新手法はないのでしょうか?
これはスキー専門誌のひとつの課題だと思います。


もうひとつ、基礎スキーに特化し、他の記事は一切載せない雑誌もあったら面白いと思うのですが…。
その目的は「如何にジャッジの目に良く映る滑りをするか」
高得点を目指すスキーヤーのための雑誌「基礎スキーコンプ」なんてあったら…どうでしょうか?

今年も10月10日に体育の日がやってきました。


マスコミの論調は子供達の体力低下を憂うものでした。
身体は身長・体重ともに大きくなっているのに、かつてその子供達の親が子供であった時代に比べると、例年行われている体力測定の結果が平均値で大きく低下しているというのです。
瞬発力(速筋)も持久力(遅筋)も低下している上に、TVで流されていた映像には「50m走でまっすぐ走れない」「ボールを投げる動作ができない」というショッキングなものまでありました。
「スポーツをしている」「していない」という区分で評価したものの、現在「スポーツをしている」子供も20年前の普通の子供に負けてしまうという結果まで出ているようです。


こういった統計は「平均値」を見て「今時の子供は…」という話になるのでしょうがどうもそれだけで良いのかな?という疑問もわきます。
「平均値」は全体傾向を知るには大切でしょうが、「最大値」「最小値」とその分布も見るべきだと思います。
統計の趣旨とは外れると思いますが、競技スポーツで世界のトップを狙うならば平均が下がっても「最大値」の数値が上がり、その集団がある程度の人数いれば良いと思いますがいかがでしょう。
これだけ自己責任の時代と言うならば、「体力など重視しない」という人々に無理やりスポーツをさせるような政策は必要ないでしょう。
ただ、国民全体の体力が低下すると、将来的に医療費が増加して財政を圧迫するという事情は理解できます。
ならば、体力測定で一定基準を上回れば保険料が安くなるような制度を取るのもひとつではないでしょうか?


子供の体力の話からずれてしまいましたが、子供の問題に関しては小学校入学以前の運動環境が大きく影響していると思われます。
生まれてから、初めて立ち上がり、歩くこと、走ること、さらに様々な「身体の使い方」を覚えていく過程があると思いますが、この段階で「身体の使い方」に興味が持てるかが体力向上にも影響していると思います。
身体を使って色々な動作・運動をすることが面白い!と感じた子供はどんどん体力も向上するでしょう。
この段階で周囲の大人が子供の興味を制限していないか検証してみる必要があると思います。


逆に学校に入ってから慌てて、型にはまった「スポーツ」をやらせてみても根本的な解決にはならないのです。(やらないよりは当然良いでしょうが)
身体を使う面白さを感じないまま「型にはまったスポーツ」を始めても、自分から工夫して動けない、上達していかない子供になってしまうと思います。
スキーというスポーツは、子供にとっては普通の生活では遭遇しない条件で身体の使い方を工夫できる実に良い「遊び」と言えます。

平成16年10月23日の夕方、中越地方で地震が発生して一年たちました。
TVなどで特集番組が組まれ、私にとっては懐かしい中越地方の方言がよく流れてきます。
「〜ですて」とかね…
地震発生時、私は上越国境の茂倉岳の山小屋にいました。
そのときの模様は当サイトの無雪期山岳修行の中で紹介しています。


さて、この震災での被害は死者数で言えば約50人と阪神淡路大震災に対して桁が二つほど違うということで、政府の支援は同じように行われなかったという報道を覚えています。
新潟の山間部など、都市部からすれば人口密度がパラパラという状態で、建物も雪の重さに対抗するため柱が太いものばかりであり、これらの要素が死者数を抑えたのは明らかです。
とはいえ、下手をすると一年のうち三分の一の期間は雪に閉ざされてほとんど復旧工事ができないという現実は雪の降らない地域に住む人にとってはなかなかイメージできない部分でしょう。


様々な産業が影響を受けましたが、スキー関係も風評被害で軒並み来場者減に苦しんだといいます。
「地震があったところにわざわざ行かなくても…」というものから「地震で被害を受けて苦しんでいる地域に遊びに行くなんて…」というものまで、色々な言い方はあったでしょう。
ただ、新潟中越地域以外のスキー場で入場者数が明らかに増えたというような話も聞きませんでしたから、スキー産業の落ち込みは地震以前の問題ということでありましょう。
最近報道されたところでは、コクドの運営するスキー場のうち、新潟県内では三国、土樽、小千谷の3箇所も休止、もしくは廃止という状況もあります。
ところが同じコクド社内でも有望なスキー場施設には新たに投資する動きも同時に始まっているといいます。
さらに最近は破綻したスキー場を格安で買い取って、採算の合う営業形態に再生する企業が活躍しているようです。
業界全体が、破綻一方の状況から再編に向かって動き出していると見ることができます。
しかし、再生ファンドが大金を持っていようとも、その過程で本当に「ふるい」にかけられ消えていくものは消えていく。
再編・再生の動きの中で、彼らの方が客観的な目でシビアにスキー業界を見ているのです。
スキーに携わる人々の中にそこまで厳しく見ることのできる人は何人いるのでしょうか。
地震などの逆境に負けない「熱さ」と、シビアに物を見る「冷静さ」の両方が必要なのは間違いありません。

私は現在スポーツ業界の販売の現場で仕事をしていますが、ユーザーとのやりとりで愕然とすることがしばしばあります。
例えばスキーウエアに関してお話させていただいたとします。


ユーザーAさま:「今はみんなメイド・イン・チャイナなんでしょう?」


私:「そうですね、ほとんどのメーカーがそうなっています」
私(心の中で):(そりゃそうだけどそんなの今時常識じゃないか)


ユーザーAさま:「中国製って大丈夫ですか?品質とか…」


私:「中国でも設備の導入や、技術指導がしっかりなされているので大丈夫ですよ」
私(心の中で):(いい加減なものを世に出すわけには行かないから、ちゃんと投資して指導するなんて当たり前じゃねーか!)


ユーザーAさま:「中国で作っているのならもっと安くできるんじゃないの?」
私:「えっ??!!」


言っておきますが、今時のスキーウエアといえば、中国で生産することを前提に価格の設定がなされているので、昔よりは明らかに安くなっています。
とはいえ、中国で作ることによって削減できるのは主に縫製加工賃であって、原価の全てが削減できるわけではありません。
だいぶ中国で調達できる資材が増えてきたとはいえ、十分な信頼性のある素材などはやはり日本や欧米のメーカーになってしまうことが多いのです。
それなのに先のような発言をなさるとは、あまりに世の中の仕組みをご存じない…と思わざるをえません。


ただ業界が悪いのも確かで、原価割れでアカを切ってまで在庫を換金せざるをえなかったので、「不当な」安値で販売してしまったことも大きな要因ではあります。
スキーバブル→デフレ状態という流れの中で、「安くならなければ買わない」という圧力にいとも簡単に屈してしまったのです。
本当に価値観が崩壊してしまっていると感じます。
(状況として不可能であったでしょうが)スキーウエアが本当に足りなくなってみんな困ってしまうくらいの状況になれば、ここまでの価値観崩壊は無かったと思います。

「雪国に生まれ育った人間のほうが、雪の降らない地域で育った人間よりスキーが上手になることが多い」


同じように感じる方は多いと思います。
また、恐らく事実その通りでありましょう。
冬の間、ずっと雪の上を歩いていれば、様々な雪質を見ることができます。
スキー関係者で「雪の上に立つ」という言葉を特別な感情をこめて話す方がいると思いますが、やはり雪の上というのはそれ以外ではあり得ない特別な世界なのです。
雪国で子供が育つときに、様々に変化する「雪」を身体で覚えていくもので、そこが「雪なし」の環境と差が出てくる点でしょう。


では、雪の環境さえあればスキーが上手くなるかといえばそうではありません。
基本的なバランス感覚などの運動神経がなければやはりダメでしょう。
しかし、私自身の育った環境を思い起こしてみると、夏場も良い環境があったように思います。
家の近所には田んぼがあり、小学校へ行くのに細いあぜ道を走っていました。
昔のあぜ道は直線的に区画整理されておらず、かなりクネクネしたものでした。
また、川原まで遊びに行くと、大きな石がゴロゴロしていてその上を文字通り「とび石づたい」に走ったりしたものです。
単純に雪のないスキー場のゲレンデを歩いたり走ったりしたこともよくありました。
全て足場の制限された中でバランス感覚を養える環境であったといえるでしょう。


ところが近年では、クネクネしたあぜ道もあまり見当たらなくなりました。
第一、ゲーム機が普及して子供が外で遊ぶ頻度も大きく下がってしまったといいます。
しかも外出しているのにポータブルゲーム機をピコピコやっていたりするのを見ると、文字通り「説教」をしなければ…と思うこともあります。
(これはなにも山の子供に限りませんが…)
そうなれば、せっかく積雪地にいるのに、その環境のほんの一部しか生かせていないということになってしまいます。


最近は地域でのジュニアのスキー活動が活発になりつつあるようですが、シーズン中の雪上練習や試合だけでなくぜひ年間通じて楽しく運動するような活動を実践していただきたいと思います。

2006年はトリノ冬季五輪、サッカーワールドカップドイツ大会とスポーツのビッグイベントがあります。
これらの大会に向けて、スキーとサッカーのユニフォームが発表されました。
製作は例によって、スキーがM社、サッカーがad社です。


興味深いのは双方ともデザインのテーマが「侍」
日本伝統の戦う姿としての象徴として選ばれたものでしょう。
戦うものでありながら近代戦争の影を感じさせることが無く、国際的に認知された「サムライ」のイメージを持ってきたというわけです。
勇猛果敢で主君のためなら命も投げ出し、自己に厳しい道徳的な規範を持つ「サムライ」のイメージというのは、調べてみると新渡戸稲造の英語の著書「武士道」が欧米で広く読まれ定着したもののようです。
実際の「侍」とは異った部分はあったにせよ、こうした見方は日本にも逆輸入され明治以降、「大和魂」といった概念と結びついて日本人の中にも定着していったと見るべきものでしょう。
トム・クルーズが映画「ラスト・サムライ」を製作したのもこのようなイメージが元になっていると思われます。
「ラスト・サムライ」は美化しすぎているきらいはありますが、西欧にはない日本独自の倫理観・精神性があるのだというメッセージがあったと思います。
「サムライ」が今また静かなブームになっているようです。


物質的な発展とヒューマニズムという正義を掲げてきた西欧文明は、イスラム文明と対立したり、経済的に大きな存在になった中華文明とつきあわなければならない状況になっています。
単純にこの西欧文明だけで良いのだろうか?という疑問が沸いたときに、日本の「サムライ」の価値観・倫理観に惹かれたのではないかと私は分析しております。


さて、我々本家本もとの日本人はこう言った意識があるでしょうか?
始めに申し上げたとおり、この冬は冬季五輪がトリノで開催されます。
江戸時代末期、西洋人が押し寄せてきた頃の日本人、自分の頭で考え、伝統の倫理観を失わずに彼らに対抗しようとした日本人のように、スポーツの世界でも渡りあっていけるのでしょうか?
「侍」をデザインしたユニフオームデザインを見たときに、そんなことを考えてしまったのです。

アニメ関係者ではなく「本当の」美術家による「ガンダム」をテーマにした美術展が開かれているようです。


言うまでも無く「ガンダム」というのは1979年からテレビで放送され、現在30台から40台の世代に多くの影響を与えたアニメーションです。
その後映画になったり、プラモデルが何億個も売れたり、続編が今日にいたるまで作られるなど他に類を見ない広範な影響を与えたといわれています。
その後のアニメ作品の内容が全くそれ以前とは変わってしまったのです。
つまり、ロボットやメカニックが出てきて、戦いがあり、登場人物(ほとんどは若者)の周りで様々なドラマが展開する…。それを見た視聴者の若者が共感する…。
多少異なった視点でご覧になる方もいるでしょうがおおむねそのような構図なのでしょう。
かくいう私も「Z」以降の続編はほとんど興味はありませんが、ファーストシリーズを時々ビデオで見ると年甲斐も無くウルウルしたりするのです。


このようにエポックメイキングな存在がスキーの世界にもいます。
「神様」といわれたスキーヤー、ステンマルクです。
最近のステンマルクのロングターンの映像を見る機会がありましたが、若干内足に加重が増えたくらいで(基本は外足加重ですが)、身体を進行方向に正対させる動きは驚くほど現役時代と変わっていませんでした。
ステンマルク以前は、板を送り出すとか、外向傾を強くしたりとか、ローテーション気味にしたりとか、いろいろ細かい枝葉の話が多かったようですが、彼は正確にカービングを続けることで恐ろしく安定した速さを維持し続け、それまでの議論を文字通り「過去のもの」にしてしまったわけです。
それならば、スキー板をカービングしやすいような形にしてやれば、それだけで「神様」の滑りに近づける!という発想がカービングスキーを生んだともいえましょう。
今は、様々な大きさのターンで如何にカービングを実現するかという視点で作られるスキーがほとんどです。
マテリアルが変わった結果、ショートターン特有の動作はほとんど見られなくなり、ミニロングターンの様相になっていきました。
まさにステンマルク以降、スキーの技術もマテリアルも「カービング」が軸になるという認識の元に大きく変わっていったのです。

あけましておめでとうございます。


暖冬傾向ではないかといわれていましたが、現在スキー場のある地域は記録的な大雪に見舞われています。
あまりに大量の積雪で交通被害や雪崩騒ぎなどが発生しています。


豪雪といわれた先シーズンも12月20日頃まではほとんど降雪がありませんでしたから、12月中のスキー場の営業成績は昨年対比でかなりの好成績になっているはずです。
つくずく「雪が降った」という気分が結果を左右するものだと思わずにいられません。
ここに景気回復を示す報道がメディアを賑わせ気分が盛り上がると…スキー業界の期待はどんどん盛り上がっていく、と言いたいところですが豪雪で被害が云々と言われると少し水を差されたような感じになってしまいます。


バブル経済崩壊後もしばらく勢いのあったスキー業界ですから、経済が回復基調にあるといわれてもその回復の波がスキー業界に届くにはまたタイムラグが発生する可能性があると考えられます。
なにせ、人件費を極度に抑制して利益を出しているのが現在の企業です。
その利益は投資家に流れていくという、資本主義本来のスタイルになりつつあると見るべきでしょう。
「景気が回復…」と言われても、雇用労働者の収入レベルが上がってこないと、全体的な回復は無いと考えられます。
また、過去と同じような好景気もこれからは無いということで、誰もが高価なスキー用品・ウエアを買うような世の中はもうあり得ないと思うべきなのです。

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