説教の記録(104-110)


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104:2005年5月30日「文明はあるが文化がない」

105:2005年6月7日「可倒式ポールと競技スキーのスタイル」

106:2005年6月13日「職人的技術」

107:2005年6月16日「余計な事を教えるのが悪」

108:2005年7月16日「スキーはメジャー化できるか?」

109:2005年7月24日「世界に対抗する知恵:バレーボールの事例」

110:2005年9月2日「テストの点数と価値観」

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発泡酒や「第三のビール」が次々と開発、発売されています。
税金の制度をかいくぐるという発想で開発されているもので、その企業努力・労力は賞賛に値するかもしれません。
しかし、そこまでして安価な酒を開発するというのは他の国ではあまり例がないように思います。


酒というのは民族の伝統、文化と深く関係しています。
政策としてその伝統の製法を守るというのは外国にみられることですが、どうも日本は違うようです。
発泡酒のような商品を開発する企業と、税制を変えて税収を確保しようとする役所の関係をみていると、伝統・文化などよりお金が入ることを重視しているようです。
消費者の方も「安けりゃこれで十分」とか「ビールも発泡酒も第三のビールも変わらない」という人が大多数ということでしょう。


日本のスキーメーカーも数十年の歴史を重ね、世界の舞台での勝利をおさめるところまで内容も高めましたが、不景気になりお金が入らなくなったとたんに多くが破綻してしまいました。
日本製スキーの伝統や文化が築けるかというところで何の助けもなく、あえなく消えてしまったのです。


三輪明宏氏の言葉が的確に表現していると思います。
「今の日本は文明はあるけれど、文化がない。」

私の知人がある日ぼそっと言いました。
「可倒式ポールが出てからレーサーのスタイルがつまらなくなった…」


確かに現在の競技スキーヤーは一般スキーヤーとのスタイル格差がものすごくあります。
レジャーとしてのスキーをするスタイルとは全く異なります。
全身タイトフィットのレーシングスーツを着てプロテクターを装着、ヘルメットをかぶりゴーグルをつけるので人によっては一見で男か女かもわからないということすらあります。
レーサー自身はそれに慣れっこになっていますが、レジャースキーヤーから見ると異様に感じることでしょう。
(特に大人数で群れていたりしたら…普通の人はちょっと遠巻きに見ること間違いなし)


可倒式以前はトップスキーヤーと一般スキーヤーのスタイルにあまり違いはありませんでした。
ダウンヒルなどは根本的に異質なものですので除外するとして、技術系種目は上はセーターで下はタイトフィットのパンツでしたから、そのままゲレンデにいても全く違和感はなかったはずです。
もちろんヘルメットなどかぶっていませんでした。
人によってはゴーグルすら使わなかった例もあったほどです。
そんな状況ですから選手個々の顔もよく見えましたし、髪型の個性までもよくわかったものです。
今では滑走中やゴール直後の写真を見てもすぐに誰かわからないことが多いくらいです。
(すぐわかるのはスキーオタクでありましょう)
着ている物はチームお揃いのレーシングスーツで、女子選手は身体のラインが出ますので一部そういう趣味の方は喜んで見ているようですが、個人で個性をアピールする余地はほとんど残されていません。


フリースタイル種目の選手に人気が出るのは、スタイルの自由度が高いことと大いに関係があると思います。

いきなり断言してしまいますが、スキーレーサーで可倒式ポール以前のオールラウンダーというのは現在の何倍も価値があったと思います。


倒れないポールだと何が起こるかというと、ポールに当たりに行くとぶつかった衝撃でタイムをロスするという現象が出てきます。
また、当時は技術系種目でも2m前後の長さの板を使うのが当たり前でしたので、振りの細かいセットに対してはいかにその板を次の方向に持っていってクリアするかという技術がありました。
スラロームでは片側の板だけを次の方向に向けて、もう一方の側は浮かせてクリアなどと、現在のショートカービングではありえない操作もありました。
要するに各種目ごとにかなり異なる技術を駆使していたということなのです。


滑走ラインはポールぎりぎりが良いわけですが、あまりに近すぎるとぶつかって抵抗となります。
そうなると抵抗を受けない範囲でいかにポールぎりぎりまでラインを近づけるかという「間合い」のようなものが重要になってきます。
その加減を計る職人的な技術というものがあったのではないでしょうか。
それが可倒式ポールになった後は基本的にはポールぎりぎりを通ればタイムが出るという状況になったわけです。


21世紀のレーシングスキーというのは種目別に極端に異なる特徴を持った板を用意し、技術的には出来るだけ同じやり方でSLからDHまでこなそうとしています。
ボーディ・ミラーがあれよあれよという間に全種目で勝ったりするのも、同じカービングの技術を技術系から高速系までアレンジしながら使ってそれで対処できてしまうからです。

ネット上でスキーに関する掲示板があると必ずといっていいほど論争の種になるのが「競技」と「基礎」の話です。
例えば、技術選に代表される基礎スキーは日本国内だけに限られた存在ですので、世界規模の競技スキーからみると非常に矮小な存在に見えると誰かが書き込むことがあります。
そうなると基礎スキーを擁護する人が基礎は競技にも通じると反論し、それに対して競技スキーヤーがそれにまた反論…と際限なくなります。
結果、SJ誌・SG誌系のBBSは閉鎖に追い込まれ現在も再開されていません。


これらの論争をROMしておりますと「競技」と「基礎」という看板を示すだけで良いの悪いのと言っている人が多く、それが泥沼化を引き起こしているようです。
同じようなスキーという道具を用いてはいますが、タイム競技と採点競技という根本的な違いがありますのでこれらに対して単に優劣を論議するのは無意味です。
さらに「楽しければ良いじゃないか」という思考停止状態の意見(?)まで飛び出すとこちらはあきれてものも言えません。
技術的に悩もうが、それが「楽しい」からスキーをやっているのです。


私自身の見解を述べれば、ポールで規制された競技スキーの練習は規制のない基礎スキーに比べて10倍以上の効果が望めると考えています。
しかし、それ以上に基礎スキーの大きな問題は毎年打ち出されるSAJの技術用語とその解釈でありましょう。
教科書的にまとめるためにまず言葉を考えます。それも毎年のように新しい言葉を繰り出して検定受験者を翻弄するかのごとくです。
これらの用語に振り回されるスキーヤーは実に大変な数に登るはずです。
しかしながら、技術選などで上位にランクされるスキーヤーは確かに上手いのも確かであり、本当の問題はいい加減に毎年新しい技術用語を繰り出すという「余計な事」を行うという部分が問題だと考えられます。


これが競技スキーの指導でも問題がないかといえば、そうは言い切れません。
カービングの特性を必要以上に強調した指導の結果、左右の角付けばかりに神経を使うジュニア選手をたくさん見かけます。
枝葉の技術(最近流行と言っても良い)ばかり指導して一番土台となる技術を軽視した結果でありましょう。


要するに技術の幹となる基本をしっかり教え、体得できる環境が重要なのは「競技」も「基礎」も変わりません。
根幹の技術を体得し、表現できるスキーヤーは競技でも基礎でも技術が高いのが見れば伝わってくるのです。
問題はどちらにせよ「余計な事」を教えてスキーヤーを遠回りさせることなのです。

「スキーでは食っていけない…」とはよく言われる言葉です。
つまり、スキーそのものの収入では生活が非常に難しいのです。
かといって選手として企業に所属したとしても、実際にスキーをする事以外の仕事が多くのしかかってきます。
今時の企業は生産性が要求されるからです。
また、他のスポーツの種目と比べてスキーのトップ選手があまりに低収入だという指摘があります。
そういった状況がスキーを志すものを挫折させているというのです。


「だからみんなでスキーをメジャーにしよう!」
という発想は実に健全で前向きな響きもあり素晴らしく聞こえますが、そんなに現実は甘くありません。
スポーツ自体に関して言えば、記録を出したり勝利をおさめたりしても直接的にはあくまで当事者(達)の問題でしかありません。
しかし、それを多くの人が注目するようになると別の価値が発生します。
多くの人が注目する場面に広告を置いておくと現在ではマスメディアを通じて非常に多くの人にアピールすることが出来るわけです。
その人数が多ければ多いほど巨額の富を生み出すのです。


そう考えると、スキーはウインタースポーツというだけでハンデを抱えていることに気付くでしょう。
例えば陸上やサッカーなどは世界中どの地域でも行えますし、高額な用具も必要ありません。
途上国から身体能力だけで上り詰めトップ選手になる可能性が開かれています。
それゆえ世界的な関心を集め、高額な資金を提供するスポンサーも出てくるのです。
雪の降らない国・地域ではスキーに全く関心は持たれません。
雪があったとしても経済的な余裕がなければ続けることも出来ません。
ビジネス的にスポンサーを惹きつける特別な工夫がないとこのギャップは埋められないと考えます。
そしてそれはかなりハードルが高い問題です。

数日前ですが、女子バレーボールのインタビュー番組を見て感心しました。
日本チームは世界のトップクラスの国の代表と比べると高さがあきらかに足りない。というのですが、それを早く変化のある動きでカバーしようということを試みているという内容であったと思います。
確かに現在の世界トップのチームは高い身長の選手が質の高い動きを見せていて両方欠かせない要素でしょう。
特に安定して勝とうとするならば、50:50で両方そなえていなければならないようです。
日本チームは身長が足りないのだから、例えて言うなら身長など身体面が30程度になるので、動きを70以上に高めて対抗するということなのでありましょう。
柳本監督のビジョンは非常に明確で、「その通りに出来れば勝てそうな」気がしてくるのです。
ただし、身体面のハンデをカバーする動きというのは明らかに世界水準を超えて未知の領域です。
それを実現するというのは大変な困難がともなうでしょう。
ともかく、日本人として自らを知り、戦う相手の人々を知り、オリジナルの方法論を作り出して勝利を目指す姿勢を見た気がしました。

先日、ニュースで全国的な学力テストを行うという報道がありました。
国際比較で日本の生徒の学力が低下しているということがきっかけだそうです。
過去昭和三十年代に実施されていたものの、教育の国家統制につながるとして日教組が抵抗して一騒動あった…というような過去の経緯も紹介されました。


NHKなどは賛否両論を紹介していました。
賛成意見は、結果のデータの使い道を考えておけば、子供の成績水準を知れば指導する先生の側も具体的に工夫できる。というものでした。
それに対して反対の立場をとる人の意見は、全国規模でテストをすると地域間で過剰な競争になり、個性を伸ばすべき教育にゆがみが生じるというものでした。
どうも反対の方々の意見には「どうせ全国テストなどすれば皆その点数ばかり気にするに決まっている」という発想があるように思います。


実社会では「学校のお勉強」だけが人の価値を決めるものではないと、大人の皆さんは感じているはずなのですが、子供に対したときに「学校のお勉強」以外の目標を示せる大人が少ないということなのでしょうか。
まあ「学校のお勉強」くらいはできないと、と考えるのも親心でありましょうが…
結局は親も自分で価値観を見出すことができなくなると「お勉強の点数」という一番イージーに入手できる物差しで子供を計ってしまうわけです。


ここで、「スキーが…」などというつもりもありませんが、そのくらい幅広い分野で個人の価値を認め合う社会になっていけばテストの点数だけで振り回されることもなくなってくるのではないでしょうか。

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