説教の記録(131-140)


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131:2006年3月29日「スポーツ報道としてのトリノ五輪報道」

132:2006年4月13日「オリンピック入賞選手でも」

133:2006年5月11日「下流社会」

134:2006年5月21日「早期の英語教育―目的と手段」

135:2006年5月29日「景気回復とスポーツ振興」

136:2006年6月18日「一流ブランド・二流ブランド」

137:2006年7月13日「やはりサッカーの方がしたたか」

138:2006年7月30日「佐々木明マテリアルチェンジ情報―ネット時代の情報伝播」

139:2006年8月9日「お金がスポーツに絡むということ」

140:2006年8月24日「選手との契約は収益性だけで良いのでしょうか」

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先日発売のSジャーナル誌を見ましたら、トリノ五輪の報道についてのコラムがありました。
一般のマスコミのスポーツ報道に対する姿勢に対し疑問を投げかける、という内容があリましたが、私もその論に同意するものです。


一般マスコミ(特にTV)で取り上げるトリノ五輪の話題といえば、金メダルを取った荒川静香のイナバウアーとか、女子カーリングチームのその後の活躍とかそんなことばかりです。
興味本位で安易に視聴率が稼げそうな話題ばかり流しているのがミエミエです。
スポーツとしての現実を真正面から取り上げることはあまりなく、岡崎朋美の激しい練習ぶりを紹介した番組くらいしか記憶にありません。
今回のオリンピックはメダル獲得の話題があまりに少なかったためか、栄光に至る苦労話を紹介することがほとんどありませんでした。


既に一部で話題になっていますが、50年ぶりに入賞を果たしたアルペンスキーの皆川賢太郎が本心を綴ったブログは、スキーを知っている、いないに関わらず心を打つものがあります。
他の競技でも怪我からの復帰には、厳しいリハビリを乗り越えねばなりません。
皆川選手は怪我からの復帰を果たしただけでなく、そのキャリアのピークをオリンピックの舞台で実現してみせたのです。
そこに至る努力、葛藤など充分に全国区のマスコミで取り上げるに足る内容だと思うのですが、やはり一般のマスコミ(特にTV)はさらっと流したような扱いでした。
結局、日本においてアルペンスキーはレジャーとしてメジャーなのであり、競技スポーツとしてはマイナーです。
そのマイナー種目では「メダル」があるとないとではこれだけ扱いに差が出てしまうということをあらためて示した事例でしょう。
これが女子選手だったら、また違った扱いになっていただろうと思うとやはりある種の嫌悪感を感じてしまいます。


トップレベルのスポーツに関わる現実をしっかり報道してもらえば、世間の認知度も上がり、そこからさらなる選手強化のきっかけが出てくるかもしれません。
報道する側にはそういった役割を期待したいものですが、とてもそのレベルで語っているとは言いがたい状況です。
視聴率とお金を稼ぐためのやっつけ仕事といえましょう。

先日、トリノオリンピック7位の湯浅選手が母校を訪れたときに、大学卒業後の所属先が決まらないという内容の発言があったという報道がありました。
なにか不都合があったのか、すぐに「なかった」ことになっているようですが…
皮肉なことに4/10発売のS.グラフィック誌の裏表紙に大きくJ社の広告に出ていました。


やはり、学校という環境から出てのスキー活動は格段にハードルが高くなるという現実があるのでしょう。
ひとまずJ社と関係を保って何とかするしかないという状況でしょう。
一般的にいわれることですが、「金を払う学生と金を稼がなくてはならない社会人の違い」です。
かつて全体に景気が良かった頃は、売上のシェアを多く取るために所属の選手の頭数(当然質も問われますが)を揃えた時代もありました。
しかし現在では「実際にお客さんを引っぱってくる選手」「会社の仕事をちゃんとやってくれる選手」でないと企業にいられないのです。


もうひとつの選択肢としては既存の企業に頼らず、自ら起業してしまうという方法もあるのではないでしょうか?
これからはそういった形態でスキー活動を続けるケースも増えてくるかもしれません。

「下流社会」という本が売れていたそうです。
私も読みましたが「総中流」意識を持っていた日本人の中に「下流」という層が出来つつあり、またそれが固定化する傾向にあるというのです。
また、テレビなどで政治討論の番組を見ると、野党は皆「格差」が広がった現在の社会を作った自民党小泉政権はけしからん!と言っています。
あまりに景気が悪くて、「がんばってもダメな時はダメだ」と思わされたからこそ、「そこそこでいいや」と感じて「中流」を目指さなくなったのか、また、かつてはそんなにがんばらない人も流れで「中流」くらいには上がっていったという現象もあるでしょう。
前出の本の中で、下流意識のある人たちの意識に特徴的なのは「自分には何か能力がある」(自己能力感がある)と思って「自分なりに」やっているという点が指摘されていました。


今の20代など若者がスキーではなくスノーボードをするのも、縦のヒエラルキーが明確に出来ているスキー界よりも各地でパラレルに仲間を作るスノーボードのほうが魅力的に写るからだと分析することも出来るでしょう。
この終わった冬のシーズンに私はスキー場隣接のホテル内のショップの運営を行いましたが、そこで使ったアルバイトの面々は皆「自分なりに」スノーボードをする若者でした。
残念ながら、仕事の面でも「自分なりに」しか動けないことが極めて多かったというのが正直な感想です。
はっきり言えば、中途半端な自己能力感をもって「自分は自分なりにやっている」という意識では、まともな仕事が出来ていないということです。


スキー(特にアルペンレーシング)をやっていると、よほどの天才でもない限り「自分なりに」ではまず良い結果が出ません。
タイムなどで評価される場合、結果は「自分なり」の努力など意味をなしません。
基礎スキーも「点数」を出すためには「自分なり」ではなく「評価する人がどう見ているか」を強く意識する必要があります。
極めて乱暴な仮説ですが、子供にスキーをさせると「下流」の層に行きにくい人間に育てられるかもしれません。

国際化に対応するということで小学校から英語の授業を始めることが決まりました。
これに対しては、異論を唱える人も少なからずいるようです。
以前から、日本自体(特に歴史・伝統)をあまりに知らない日本人は国際人として通用しないと言われてきました。
海外に出かけて外国人と会話をしていった場面で、日本自体のことを話せない日本人に対しては
「私は日本の伝統文化を知りたいのに、お前は何も知らないじゃないか。本当に日本人なのか?」
というような言葉を投げかけられるといいます。


現時点で日本語に問題のある日本人(子供も大人も)が多いのに、英語教育を早める意味など無いのではないかという意見があります。
日本語での基本的な思考力をしっかり育てなければならない子供時代に日本語ではなく、英語の時間をとるということは今より日本語で思考する時間を減らすことにつながりかねないと危惧する意見もあります。
国際化に対応するために英語を早くから教えても、それはコミュニケーションの手段のみを教えるだけで、その中身(あるいは目的)がおろそかになってしまう恐れがあるということです。
大体、英語を習得するのに一番効果的なのは、英語の歌や映画を理解したいとか、英語で何か表現したいとか、仕事上必要であるとかいった状況になることでしょう。


スキーの上達に関しても、似たような構造が見えてこないでしょうか?
一生懸命に子供にスキーをさせている親御さんがいらっしゃいますが、海外キャンプなどに参加させたりと上達の機会(手段)は与えられても目的や行き着く先を明確に示せていないこともあるのではないでしょうか。
本人が具体的な技術課題を意識できなければただ漫然と滑って終わるでしょうし、更に5年後10年後のイメージが描けなければなんとなく高校卒業と共にやめてしまうでしょう。
逆に本人が目標を意識できれば、手段をフルに生かしてどんどん上達するはずです。

景気が上向いていると「一般的に」言われていますが、企業の収益性が厳しく問われる現在、スポーツへのサポートにも厳しいチェックが入っています。
スポーツ活動は企業にとってはあくまで宣伝・イメージアップであって、それによって売上が上がり収益が上がらなければならないのです。
これは一般企業だけでなくスポーツメーカーも同様であって、かつてはかなりアバウトな判断で選手をサポートしていた会社も現在では細かい規定を設けているところが増えたようです。
スキーの場合の規定としては、国際試合・全国レベルの国内試合での成績に応じて、無償提供〜割引販売の段階をつけるというものが多いでしょう。
あくまで選手が出した結果に応じて条件が決まるというものです。
これは「成功した者に好条件を与える」という非常に合理的な考え方に思えますが、それだけで良いのでしょうか?


スキーやブーツなど競技結果をダイレクトに左右するグッズの場合は、その性能・特性を得たいがために選手側からアプローチしてくることもありえます。
ところがウエアだったら、「そんなに成績を左右しないから、最初に声をかけてくれたメーカーとずっと付き合っていく」という選手(もしくはその親)も多いと聞きます。
それなのに某ウエアメーカーではグッズメーカーと同様の「結果で全て判断される」規定を運用しています。
皆様ご存知の通り、スキー競技というのは環境要素に大きく左右され、ポテンシャル通りの結果が出ないことも多いものです。
特にジュニア選手の発掘という場面で問題が出てくるでしょう。
どう見てもポテンシャルが高いのに、たまたま大きな大会で失敗してしまうと規定によってサポート対象から外れてしまうというケースが出てきています。
あまりに結果のみの判断に凝り固まっていると、本当に注目された頃には他のメーカーに取られてしまっていた…という事態に陥るわけです。
その選手を取りにいくためには、高額なお金を使う必要が出てくるかもしれませんが、お金を積んでも義理を感じる選手ならばそれに応じないこともあるでしょう。


今の日本はスポーツに理解のない経営者がスポーツメーカーのトップになることが充分ありえます。
経済合理性が重視されて、経営側が簡単に判断できる順位などの「数字」で判断しようとする傾向はまだまだ続くかもしれません。
元々スポーツの宣伝効果などは厳密に計ることなど出来るものではないと思います。
さらにトップ選手といえども、常に好成績をあげられるかはなんともいえないものです。
「結果・数字」で判断基準を設定すれば誰が見ても「経営的には」納得できますが、もっと広くスポーツを振興しようとするならばさらに丁寧なリサーチとデリケートな判断が必要になってくるはずです。
これは特にスポーツに関わる企業にとっては、スポーツを振興しようとする理念があるかどうか、またその理念を実現していくのにどの程度力を割けるか、という問題でしょう。

先日、仕事でとある会議に出席しました。
その場で「スキーはロイヤルスポーツ」であるという話が出ました。
例えばヨーロッパなどの本当の上流階級がたしなむスポーツとしてスキーは不動であるということです。
日本においても皇族はスキーを楽しまれます。
ゴルフではありません。やはりスキーだというのです。
スポーツの中では、いうなれば「一流ブランド」です。
「その価値は決して落ちることがない」という意味で、鞄の世界のルイ・ヴィトンのごとくスキーは一流のスポーツなのです。


バブルといわれた時代にピークを迎えたスキー人口ですが、戦前においてはそれこそスキーの世界の草分けといわれる人たちと皇族だけの世界であったはずです。
太平洋戦争後、アメリカ軍が進駐してきたときに彼らがスキーを楽しもうと、主要なスキーエリアが整備され日本のスキー場の基礎が固まり、その後経済的に豊かになった日本人の冬の娯楽になり、スキー界は発展してきました。
現在ではまた、本当にスキーをしたい人がそれを行うというある意味「理想的な状態」に戻りつつあるのかもしれません。


ただ、スキーに関わるメーカーは大量在庫を叩き売ったことによるイメージダウンの影を引きずっているところが多いようです。
また、スキー場・リゾートも「本当にお客様をもてなす」という部分がおろそかであったとの反省から基本部分の建て直しに躍起になっているようです。
スキー自体は「一流ブランド」かもしれませんが、それに関わる企業・産業は残念ながら「価値を落とすことのある二流ブランド」といわれても仕方がないでしょう。
しかし、悲観することはありません。今また価値は高まりつつあるのです。
表面的なものではなく、実質的な性能でスキー板が評価されてきているのが証拠といえましょう。

我々にとっては「ワールドカップ」といえばまずはスキーのそれを意味しますが、世の中一般では今回イタリアの優勝で幕を閉じたサッカーWCを指すことがほとんどです。
日本は残念ながら予選リーグで敗退してしまいましたが、その直後に協会の川淵キャプテンがジーコ監督の後任の名前を「うっかり」口にしてしまいました。
すると、マスコミは「次はオシムだ!」とみんなそちらの話題に向かっていきました。
日本敗退後もサッカーで日本絡みの話題は途切れませんでした。


これは私の推測ですが、川淵氏は「うっかり」のふりをして実は「わざと」口にしたのではないかと思っています。
そのままにしておけばジーコ監督の起用に対して批判的な検証をマスコミはやりかねなかったでしょう。
その矛先を見事にそらして次の前向きな話題に振り向けたと思うのです。
この推測が本当ならばサッカー界のマスコミ操作は非常に高レベルで行われているといえましょう。
対人間でプレーするサッカーの競技特性がこうした協会の性格にも反映しているように思います。
スキーもこのくらいの対応力があればまた世間の注目もひきつけられると思うのですがどうでしょうか?

7月24日〜25日にかけて佐々木明選手のマテリアルチェンジの発表が関係各社からありました。
その前に様々な噂や憶測がネット上を飛び交い、一時騒然としたのは皆様もご存知のことと思います。
事務的な交渉は密室で行えますが、スキーの選手がマテリアルのテストをするとなるとどうしても人目についてしまいます。
自動車の開発試験のように自社専用のテストコースで形も擬装して…などというわけにもいきません。
もっとも、現在は「〇〇スキーのテストをした」とわざわざ公表するケースも多いようです。
本命のメーカーから好条件を引きだすための「ブラフ」としてとりあえず試してみる、などということもあるようです。


いくつかのなスタイル・種目のあるスキーですが、レーシングスキーヤーは特に「レアな」情報に目が無い人種です。
アマチュアといえども、「実はタイムの出るワックス」等、他人の知らない情報を持っているだけで精神的に優位に立った気になるものです。
その流れで、選手の移籍話でも「先に知っていた」ということだけで、「優越感」「劣等感」を持つ人がいて、それがネット環境で増幅されていたと考えられます。
それにしても、これだけ情報が飛び交うということは、それだけ直接・間接の関係者が話してしまっていることが考えられます。
昔であれば「ここだけの話」といえば大体はそのようになっていたのでしょうが、今のネット社会では「ここだけ」にとどまるはずがないのです。
虚実入り混じるネット社会の怖さを見たような気になりました。

ボクシングの亀田興毅選手の世界戦に関して判定の妥当性などをめぐり多くの意見が世の中を駆け巡っています。
ボクシングというのはKOすれば物理的に誰が見ても反論の余地の無い結果となりますが、判定となるとジャッジがどのように点をつけるかという問題が出てきます。
基礎スキーのジャッジ問題を想起した方もいたのではないでしょうか。
判定制はまた、不正な結果を作りやすいという負の側面を含みます。


さて、今回の説教は判定云々がテーマではありませんので本題に入りますが、亀田一家の流れを見てつくづく感じることは、彼らの周りに大きなお金の流れが起こっているということです。
特にTVなどのマスメディアは人気さえあれば世間の注目が集められますので、面白おかしく取り上げます。
疑惑があろうが、視聴率が上がればそれで良いということなのです。
やはり話題の中心に巨額のお金が集まるのは時代の特徴といえるでしょう。


今回の騒動(かなりバカバカしいものも含めて)を見ているとマスコミや試合の興行主が思いっきりお膳立てをしていて、試合をする本人はややその状況に戸惑いすら感じているように見えます。
よく、スキーには金が集まらないなどと言いますが、一方ではこのような形でお金を動かすスポーツがあるいうことであり、その道を選んだならその環境に身をおく覚悟が必要ということです。
しかしながら、本来は実力を示してそこにお金がついてくるべきものです。
これで興毅選手はより高いハードルに挑まざるを得ないでしょう。
それを越えなければ、ただ利用されただけの人間で終わってしまいます。

景気がよい時代においてはウインタースポーツだけでも充分多くの企業が成り立っていましたが、現在ではなかなか難しい状況です。
近年のスポーツメーカーのトレンドは、いくつかの分野・種目をカバーして企業規模を大きく、季節種目のムラをなくしていく方向でしょう。
有名なアディダス、ナイキなどは、ウインターのメーカーから見るととんでもなく巨大な企業です。
ISPO(国際スポーツ見本市)などの展示会のブースの面積を見ればよく分かります。ウインターのメーカーが展示ホールの一角を使うのに対して、彼らはホールを丸ごと使い切っているのです。


しかしながら会社が大きくなると良いこともあって、収益性が低いであろうウインタースポーツに対しても「戦略的に投資してみようか」ということになることがあるのです。
昨シーズンまでのA社がまさにそういった状態であったのでしょう。
トリノ五輪に向けて有力選手と多数契約し、メダルも多数獲得していきました。W.C.でもほとんど毎回表彰台に上っていました。
プロモーション効果ばっちりです。
しかし、トリノ後は契約選手が激減。
ボディ・ミラーも期待したほどの活躍でないとスッパリ切ってしまいます。
収益性を最重要視しているのがミエミエです。


対してブリザードは、ヘルブストのように可能性のある選手にチャンスを作ってトップに押し上げ(もちろん本人の努力もあります)、ついにはメダリストになったのです。
残念ながらヘルブストは怪我をしてしまいましたが、さらに何人もの選手がディーター・バーチのもとトレーニングを積んでいます。
そういえば、日本のプロ野球にも何やら似たような話がありましたね。

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