説教の記録(21-30)


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21:2002年2月2日「本番のような練習―ポールトレーニングの場合」

22:2002年2月7日「本番のような練習―フリー滑走の場合」

23:2002年2月12日「里谷銅メダル―採点競技としてのモーグル」

24:2002年2月18日「採点競技の問題―基礎スキーの問題」

25:2002年2月23日「うさぎとかめの証明―ブラッドバリー選手の例」

26:2002年2月25日「うさぎとかめの証明―アラン・バクスター選手の例」

27:2002年3月2日「ザウス閉鎖―過剰なスキー業界」

28:2002年3月10日「真実の勝利―ドルフマイスター総合V」

29:2002年3月14日「基礎スキー種目設定の問題点」

30:2002年3月17日「カービングスキーとデジタル化」

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競技スポーツ全般でよく 問題とされている事ですが、
本番の試合の時に練習で培った力を出せるか否かはスキーにおいてもレーシング、基礎(デモンストレーション)の区別無く重要な要素です。
「本番のつもりで練習し、練習のつもりで本番を滑るべし」とはよく言われることでしょう。
今回は前者の「本番のつもりで練習する」ことに焦点をあててみます。


「本番のつもりだなんて精神論だ」と思われるかもしれません。
確かに「本番であるかのように思い込む」だけならそうでしょう。
しかし、私が申し上げたいのは「その日、その斜面あるいはそのポールセットを最初にいくときこそ実戦とみなして、最も集中して滑るべき」ということです。
スキーという種目の競技としての特殊性に舞台(雪面)がどんどん変化していってしまうということがあります。
そんな中で出来るだけイコールコンディションに近付けるため、インスペクション以外はコースに立ち入る事も禁止しています。
各選手にとって、競技の一本とはその日そのコンディションで初めての一本になるのです。
それ故、特にレーシングの場合はあるひとつの練習ポールセットを初めて滑る時は、きちんと攻めきるようにしなければならないのです。


「失敗しても2回目に滑る時にうまく出来れば良い」などと考えてはいけません。
不可抗力による場合を除いて実戦に同一コースでの2本目はないのです。
この緊張感なくして、「本番のような練習」は成り立ちません。
次回はこの話の続きをします。

前回は、本番の試合を意識した練習をいかに行うかという事を、レーシングを例にしてお話しました。
今回はポールで規制されていない場合で考えてみます。


規制されていなければどこを通ってもよいのだから、なにも緊張感など無いと思われるかもしれません。
そこで少し視点を変えてみましょう。
規制されない状況で最も緊張感を強いられるのはどんな場面でしょうか。
「急斜面」、「コブ斜面」、「クラストなどの悪雪」など色々思い浮かぶことと思います。
それはそれで確かに緊張感を強いられますし、積極的にそういう場所を滑ることは対応力を拡げる為にも大切な事です。
しかしそれはその場その場での話であり、滑り出す前にじっくり心の準備をしてしまえば難易度は下がってしまうのです。
もっと本質的に考えてみましょう。


スキーの動作、操作はスピードに乗った中で次々に迫ってくる新しい状況に対応しなければなりません。
それは「反射的」な速さで行なわれなければなりません。
賢明な信者の皆さんはもうお分かりの事でしょう、そうです、長い距離を止まらずに滑りきることが極めて大切な修行なのです。
ある程度スピードに乗った状態で斜面変化(雪質の変化も)のある場所に飛び込めばまさに本番の緊張感を味わう事が出来るでしょう。


ただし見通しの悪いところに滑り込んでいく時はくれぐれも気をつけてください。

ソルトレイクオリンピックでのスキー最初の種目、女子モーグルで里谷選手が銅メダルを獲得しました。
競技のシーンはそんなに細かく見ていたわけではありませんが、まず思ったのはエアでヘリコプターくらいは決めないと優勝争いには加われないということでした。
もはや長野での男子選手の技を女子選手がやらないと勝負にならないのです。
エアでリスクを犯していかなければならないところ、確実に出来る範囲にした時点で日本チームの金メダルの可能性はなくなっていたのです。


そうかといってもエアだけでなくターンもしっかり採点されていました。
守りすぎてズリズリでもダメ、攻めるにしてもコントロールできずに暴走してはダメということが結果にはっきり現れていました。
里谷選手の銅メダルもターンの評価が高かったからですし、上村選手について会場の期待値を裏切るかのような点数しか出なかったのも中盤の数回のターンがアンコントローラブルになっていたところをしっかり減点されていたからだと言われています。
(ちょっと減点がきついような気もしますが…)


いずれにせよ、やはりモーグルというのは採点競技なのだということを再認識したのでした。
そのなかで里谷選手はターンを極めて銅メダルまで到達したのです。
しかしこれからはよりアクロバティックなエアの技が要求されるでしょう。
ますます身体に悪い競技種目になりそうです。

ソルトレイクオリンピックでフィギュアスケートの採点をめぐり不当な圧力があったとして、ジャッジの判定を覆して金メダルがカナダペアにも授与されました。
詳細はオリンピック関係のサイトを見ていただくとして、今大会は「採点する」という行為がいかに政治的な影響下にあるものなのかが明るみに出てきたといえるでしょう。
洋の東西を問わず、政治に権謀術数はつき物であり、ただ「優位に立つこと」、「勝利すること」を目的とするならば、買収や談合、圧力をかけたり場合によっては恫喝が行われることもあります。
タイムが全てと思われたスピードスケートでもフィッツランドルフのスタートにはフライングの疑惑が残ります。


ともあれ、「不正ではないか」といえるのはジャッジの採点基準が極めて明確で、大多数の人が点数をみて「これはおかしい」と感じることができるからなのです。
会場がどこであれ、どんな大会であれ、同一基準で点数が出せるということです。


そう考えると基礎スキーはそれ以前の問題があると考えざるを得ません。
「スキーは時間とともに斜面状況が大きく変ってしまう」等の特殊性はもちろんありますが、政治的にどうのというぴりぴりした不正ではなく、昔から「デモは良い点数が出る」とか、「検定の合格がスキー場によって極度に違う」とか、もっと生ぬるい「いい加減さ」がはびこっていると言えるでしょう。
基礎スキーが国際的にも認知されるためには最低限その部分がクリアされる必要があると思います。

以前、ウサギとカメの寓話に例えてあきらめずに続ける事の大切さをお話した事がありました。


ソルトレイク五輪のショートトラックでまさにその事を証明するかのようなことが起こりました。


そうです、オーストラリアのブラッドバリー選手の金メダル獲得です。
私は説きました「いつもは上位の人が決定的なミスを犯したとすれば勝利のチャンスはあなたの元に転がり込んできます。」と。
まさにその通りのことが実際に起こったのです。
しかも、オリンピックという世界最高峰の舞台でこのようなことが起こりうるのです。
オーストラリアでは「ブラッドバリーのようになろう!」ということは「ネバーギブアップ(あきらめずに続けよう)」という故事成語になってしまったと聞きます。
いろいろ判定に疑惑があるといわれ続けているショートトラック競技でこのブラッドバリー選手が金メダルを決めたレースに関しては判定面でも問題が出ていないというのもなにやら象徴的とも見えます。
アルペンスキーレースはスケートショートトラックに比べてハプニングの発生する余地がはるかに少ないとは承知していますが、同様の事態がどこに発生するか誰にもわかりません。


もうひとつ、スケルトンの越選手の活躍にも言及せねばなりません。
37歳でオリンピックに出場、しかもメダル候補と目されていました。
37歳といえば立派な「オヤジ」ですよ!私よりも年上ですよ!
多分、あんなにボタ雪が降っていなければもっと上位に入っていたといわれています。
もう一度申し上げます。
「あきらめずに続けていれば、勝利のチャンスはあなたの元に転がり込んでくるかもしれません。」

先日、あきらめずに続けることの大切さを示す出来事がオリンピックのショートトラック競技で起こったとお話しました。


今度は男子スラローム競技で同様のことが起きたのです。
アラン・バクスター選手の銅メダル獲得です。


前回の長野大会のときは、正直こんなトップクラスの成績をおさめるなどとは想像もできませんでした。
「参加することに意義がある」というか「参加することにしか意義がない」選手かと思っていました。
しかし、先シーズンはワールドカップでも一桁順位を連発し、とうとうスキー競技でのイギリス初のオリンピックメダリストになったのです。


ボード・ミラーやコステリッチの失敗やオーストリア勢の不振で、のきなみ上位選手が消えていったところにしっかり上位に食い込む滑りができていたのです。


これはまた、日本選手がメダルを獲得する可能性があることを示しています。
何しろ長野大会のときは、木村選手のほうがバクスター選手よりはるかにランキングは上だったのです。

3月1日、あのザウスが閉鎖される事に決定したというニュースが流れました。
9月いっぱいまでは営業するとのことですが、これでスキーオタクの夏季のトレーニング、スキーテストのスケジュールに大きな影響が出る事でしょう。
スキースクールにとっても夏季の稼ぎを得る場が無くなってしまうかもしれません。
ただ、三井不動産としては譲渡先を探すということのようなので、必ずしも無くなると決まったわけではないようです。


この出来事と、三井物産スポーツ+ロシニョールジャパンの統合がどこまで関連があるかは知る由もありませんが、スキーというスポーツがビジネスとしてとてつもなく縮小していることは疑うべくもありません。
残念ながら現状としては、
スキー場の数は過剰です。
市場に流通するスキー用品、ウエアも過剰です。
スキーを扱うショップも過剰です。


最も残念なのは、
そんな過剰な中でも真実のスキーはほんの一部。
真実のスキー技術を伝えるスクールもほんの一部。
景気の良い頃、スポーツとしての本質を忘れ、ただの儲け主義に走った結果、抜け殻しか残っていないかのようです。
ウインタースポーツの王者と言われながらも、競技としては世界のトップを争う選手がなかなか出てこないのもこんなことが関係しているように思います。

ワールドカップ女子総合優勝がオーストリアのミヒャエラ・ドルフマイスター選手に決まりました。
やはり真実のスキーを使い、真実の技術を駆使した者の勝利と言えるでしょう。
数年前、一度ブリザード社がレーシングサービスの停止を発表したことがありましたが、その時「お願いだからブリザードで戦わせて欲しい」と申し出た数名の選手の中にドルフマイスターはいたのです。
その後、彼女は99年ベイル世界選手権の滑降で銀メダル、01年サンアントン世界選手権の滑降で金メダルを獲得。
そして、今期はワールドカップの大クリスタルトロフィーを手にしたのです。
聞くところによれば、ブリザード社は使用選手がメダル獲得などの活躍をしても報奨金はほとんど出せないようです。その状況下でこの活躍です。
さて、先にお話したブリザードを使いたいと申し出た数名の選手の中にレナーテ・ゲッチェルがいました。
彼女は99年ベイル世界選手権の滑降で金メダルを取り、翌シーズンはワールドカップ総合優勝しましたが、その直後にサロモンへ移籍してしまいました。
お金を積まれたかはさだかではありませんが、少なくとも「あなたのお望みのスキーは用意できます」くらいの事は言われたことでしょう。
実際、サロモンは選手用のアトリエを重視しトップレーサーに対しては各人に合わせたスキーを用意すると公言しています。
しかしゲッチェルの移籍の判断が正しかったかどうかは、その後の成績を見るかぎりYESとは言い切れないようです。
しかも、先日ワールドカップ滑降第8戦で転倒、膝の靭帯損傷、下腿骨折と、まるで何かに(ブリザードに…とは言いませんが)呪われているかのようです。
「経済、経済」と毎日お金の事で多くの人が悩まされ、スキーの世界もお金の問題は避けて通れない時代ですが、今回お話した事はそれが全てではないということを示しているように思います。

聞いた話ですが、苗場での技術選甲信越予選で三本もスキーを用意していた参加者がいたそうです。
メーカーから供給されていたわけではなく、自前で揃えた「一般」スキーヤーであり、どうやら大回り用、小回り用、不整地用の三種類だったのではないか、とのことでした。
「整地」、「不整地」などと一種目に対して単一の斜面状況が用意されるため、三種類もの板を乗りこなせるかというリスクよりも専用の板を使うメリットが上回ったのでしょう。
これは業界的にはまことに結構なことではありますが、それで良いのでしょうか?
確かに今日のようにカービング化が進むとオールラウンドに使えるスキーが成立しにくくなっているとは思います。
しかしここでひとつ疑問を感ぜずにはいられません。
「この人は斜面が変化してもまともに滑ることが出来るのだろうか?」
出来るかもしれないし、出来ないかもしれません。
基礎スキーのやり方ではその部分が極めて判断しにくくなっています。
あまりに限定された斜面で演技が行われているのです。
本当に競技の舞台を限定して、フィギュアスケートや体操の規定競技のようにするならば、もっと採点基準を明確、厳密にするべきでしょう。
さらに、「総合滑降」と称する種目ならば、山の上から下まで止まらず滑べらせる位でないと本当のところは見えてこないのではないでしょうか。
当然、途中にはコブ斜面もあり、コース幅もロングターンが余裕でできる広い部分もありショートターンを要求される狭幅の部分もあるという設定にします。
採点はコース途中で手分けして行なえばよいのです。
そこまでやれば、どの斜面に焦点を合わせるか、真にオールラウンドな性能・セッティングのスキー板は?という興味も出てきてもっと面白い競技になると思います。
それで出来てきたスキーならば真の意味での「基礎スキー用」と言えるのではないでしょうか。

前回の説教で、状況によって何種類ものスキーを使い分けるスキーヤーの話をしました。
カービング登場以前は現在ほどシチュエーション毎に異なる板は求められてはいなかったと記憶しています。
なぜでしょう?


以前の説教でスキーの基本中の基本は直滑降であると述べましたが、いかにターンをするかということはスキー技術を高めていく上での最大の関心事です。
カービングスキー誕生のきっかけは、一説によれば熟達したスキーヤーが踏み込んでたわませた回転孤を最初からサイドカーブに組み込む試みであるといわれています。
その結果、以前は身体をしっかり谷側に向けつつ、スキートップを進行方向に持っていき、ぐっと加重しながらエッジを噛ませて・・・などとやっていた動作が大幅に簡略化されてしまったわけです。
しっかりスキートップを運ばなくても勝手に板が次の方向に向かっていくようになりました。
きちんと角付けして加重できなくてもサイドカーブなりにどんどん回転していくようになりました。
つまり、乗り手の人間が状況に合わせて加減する部分が大幅に減ってしまったのです。
抽象的な話になりますがこれは歴史的にみれば、近年急激に進んだデジタル化の現れと解釈できることです。
ここでは人間が微妙に、あるいは感覚的連続的に加減している状態をアナログとするならば、デジタル化とは単純なON/OFFに近付いていくこととしましょう。
乱暴な言い方をすれば、カービングスキーの操作は右側の加重・エッジングと左側の加重・エッジングのON/OFFでも成り立ってしまうのです。
その代わり、回転弧の大きさは極めて限定されてしまいました。
この「デジタル化」で最も恩恵を受けたのは中級レべルのスキーヤーです。
一言で表現出来ない「アナログ」な操作、加減が上手くいかなくて苦労していたのに、ある日カービングスキーを履いたらそんな面倒なことが不要になってしまいました。
正確に言えばアナログ的な微妙な動作がなくてもスキーの板なりに回っていってしまうのです。
そんな調整力の無いスキーヤーがサイドカーブなりにしか曲ろうとしないスキーを使うのです。
斜面が変化したら板を取り替える原因がそこにあります。

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