説教の記録(61-70)


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61:2003年7月11日「プレートの仕掛け」

62:2003年8月12日「バランスの悪い現代人」

63:2003年8月21日「五感を使ってスキーしましょう」

64:2003年9月21日「阪神タイガース優勝―勝ちにこだわる」

65:2003年10月20日「スキーと物理の理論」

66:2003年10月28日「仕掛けられたバックカントリー」

67:2003年12月9日「演じる基礎スキー」

68:2003年12月29日「効率を問われる時代」

69:2004年1月1日「なぜ、人はスキーをするのか?」

70:2004年1月12日「人をスキーに駆り立てる依存症」

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テニスで、ラケットの大きさを制限して(小さくして)ゲーム展開をもっと面白くしようという提案があったという話を聞きました。
採用されるかどうかということに関しては否定的な見方が多いようですが、スキー以外の種目でもマテリアルに規制を加えようとする人がいることが分かりました。


スキーの世界に目を移してみると、既にカービング化に対しサイドカーブはFISの規制が入っています。
スラロームについては各社トップ幅などに解釈の違いが見られますが、リーゼン(GS)に関してはほぼ各社横一線に並んでしまった感はあります。


サイドカーブ以外にスキーの性格を左右する要素と言えば、一番にはフレックスとトーションということになるとい思いますが、その方向性は既に定まっています。
つまり、フレックスは柔らい(しなりが大きく出る)が、トーションは強い(ねじれにくい)というものです。
これを実現する部分でトレンドが「平板」であったり、「プレートの仕掛け」になるわけです。


サイドカーブがもっときつかったときは、しなってカーブを作る必要も無かろうとフレックスを今よりは柔らかく設定していませんでした。
こういう板は得てしてキャップ構造が多く、ターンがサイドカーブによってかなり規定されてしまう傾向があり、スキーヤーの自由を奪うものと言えましょう。


今では、しならせなければカーブが作れないということでだいぶ柔らかめに仕上げた板が多いようです。
こうなると、外殻がしなりを規制するキャップ構造ではなく、自然にしなりが出るサンドイッチ構造のいわゆる「平板」が注目されるわけです。
キャップ構造に飽きたというファッション的な要素もありますが、やはり機能的な要因が大きいのです。


もうひとつの要素がビンディングも含めた「プレートの仕掛け」です。
板の「しなり」は妨げず、それでいてスキーヤーのパワー伝達はしっかり行うという二つの要素を両立させるのがトレンドです。
板が「しなれば良い」ということだけではないことはサロモンの初期パイロットシステムがよく証明してくれました。
昨年6月の説教でもお話したとおり、しなってもほとんど戻りが感じられない板では能動的にスキーを行うことは出来ません。
「しなれば」「戻る」わけで、その戻り具合が極めて大切であり、スキーの性格やスキーヤーとの相性を左右するのです。


それにしても一部メーカーの打ち出している極めて機械的に複雑な仕掛けには疑問を感じざるを得ません。
ブリザード、シグマRSのプレートを見てしまうと、素材の配置の工夫さえあれば構造はシンプルでも充分機能を発揮するのです。

梅雨明けが8月までずれ込み、梅雨明け後も雨が多くなにやら異常気象の予感が漂う今日この頃です。
マスコミでは、うっとうしい季節に凶悪犯罪、少年犯罪が報道されてまたうっとうしい気分になっている方も多いことでしょう。


テレビ報道では、普通人の理解の範囲を超えた犯罪として犯人の「心の闇」などと表現して片付けているようですが、それ以上踏み込んだ論評はあまり見当たりません。
テレビ以外で探していくと、現代の環境では「ヴァーチャル」「情報」という言葉に代表される「意識」の部分が肥大し、生々しく「身体」で感じる部分が少なくなってバランスの悪い人間が出てくるという内容の評論が見つかったりします。
ならば「どうしたらよいか?」ということはあまり自信を持って言っている人はなかなか見つかりません。


現代における「ヴァーチャル」の代表はテレビやゲーム、あるいはインターネットということになろうかと思います。
いわゆる「良識ある大人」で、子供向けのアニメーション等は暴力描写が成長する過程で人格形成に悪影響を与えると真顔で言う人がいます。
「有害番組」としてPTAが槍玉に挙げるそれです。
彼らはテレビ番組でも、報道・教養を扱ったものは高級で、娯楽番組はそれより劣ると考えていることもあります。 私はそうは思っていません。
見方によっては戦争の生々しい映像を格好よいところだけ切り取って報道の映像として流している事は、暴力描写よりもたちが悪いのかもしれないのです。
番組の内容はたいした問題ではなく、そういった視聴覚に限った情報に偏りすぎるバランスの悪い状況が問題だと考えます。
もっと「温度」「手触り」など、身体的感覚を総動員する体験を増やす必要があるでしょう。
もちろん、スキーの体験は普段遭遇することの無い感覚に満ち溢れていますのでバランスをとるには最適なスポーツのひとつなのです。

前回、「ヴァーチャル」「情報」「意識」に偏った現代人のバランスをとるためにスキーは有効であろうというお話をしました。


ところが困ったことに、スキーに関して「意識」的に考えすぎる人がまだまだ沢山います。
曰く、「内脚はどのくらい使ったら良いのでしょうか?」とか、
「コブ斜面はどういう風に滑ったら上手くいくのでしょうか?」
「○○の場面で外向はどの程度にすれば良いのでしょうか?」などなど。
このような方々はスキーのことを考えるときに「言葉」を使いすぎています。
仕事でストレスを抱えている方は、さらにストレスを抱えてしまいかねません。


大体、テレビが普及してから生まれ育った世代は(私もそうですが)、映像を通じて実際に体験していない事、実際に経験不可能な事を情報として取り入れるのが当たり前になっています。
スキーのワールドカップ、オリンピックなども現地で直に見られる人はごく一部で、大部分の人はテレビなどを通して観戦します。
「ヴァーチャル」で見聞きしたことを「言葉」で話す事がどうしても多くなるのは仕方の無いことと言えましょう。
雑誌などはまさに「文字」「言葉」で表現されて否が応でも「意識」サイドに傾いてしまいやすい環境ができています。
こうしてあなたの見ているネット上の世界などは「ヴァーチャル」の権化とも言うべき存在です。


それらを見たり、読んだりするなと言っているのではありません。
そちらに偏らずに、滑走する時を大事にして、もっと五感を総動員し動きを感じていく必要があるのです。

プロ野球セントラルリーグで阪神タイガースが優勝しました。
18年ぶりとの事で、言われてみればそんなに月日が経っていたのかという感じです。
恐らく最も経済波及効果の高い優勝球団といえましょう。


その阪神球団の中でも、最も注目されている存在は言うまでもなく星野仙一監督でありましょう。
18年前と違って日本全国が逆境の只中にある現在、ダメといわれ続けたチームを勝利に導いたストーリーは日産のカルロス・ゴーン社長と並び称されるのではないでしょうか。
その星野監督のインタビューの中で特に留意すべきは、「勝ちの味を知る」という言葉でしょう。
普段の小さなことでも「勝ち」にこだわることで勝負強くなる。という解釈も成り立つでしょうし、
「勝つ」というイメージが出来ていなければ実際に勝つことも無いともいえます。


レーシングスキーの世界でも、二本勝負の一本目でトップに立った選手が二本目でボロボロになり、勝利を逃してしまう場面を何度も見ています。
逆に一度でも優勝を経験すると次々と勝ちを積み重ねるという事例も多数あります。
やはり実際に一度でも「勝つ」ことが一番効果的なのです。
これは、「偶然」でも、「まぐれ」でも構わないと考えます。
やはり、人間というのは「これは出来る」、あるいは「出来るかもしれない」と思わないことにはまず出来ないものなのです。

スキーに関して物理法則を使った論争がたまにネット上で盛り上がることがあります。


スキーで実際に滑走している環境というのは実に様々な要素が絡み合う複雑なものです。
雪面の状況、マテリアル、滑る本人の状態全てが影響しあいます。
それを物理学の法則で表現しようとするとどうもしっくりこない。
それはそうです。
物理法則というのは環境、条件を極度に単純化するか、どう見ても同じになるほど細分化されたミクロな世界に分解するかで成り立っているからです。
西洋の近代科学はそういった特徴があります。
そのような考え方では複雑すぎる状況を直感的にとらえることは困難です。
的を得た理論なのか否かもよく分からなくなるほどです。


スキーを分析する学術論文や思考実験ならば意味もあろうかと思いますが、実際の動作に反映できない理論は実践するスキーヤーにとっては意味が無いのではないでしょうか。


実践的なスキーヤーならば細分化するよりは、運動の流れを見てその本質を見出す能力が問われるものと思います。

ここ最近、スキー誌でバックカントリーが取り上げられることが多くなりました。
「バックカントリー」とは、管理整備されたゲレンデの外を一般的には指しています。
従来、スキー誌の中核をなしてきた記事は「基礎スキー」的な技術論、「レーシング」スキーの話題、「レジャー」としてのスキーリゾートの話題といえましょう。
そのどれもが不景気の影響をもろに受け盛り上がりに欠けているのに対し、テレマークに代表される「バックカントリー」の分野が唯一成長しているからなのです。
当然、海外のトレンドももろに受けている部分もあります。
スキーメーカーが一生懸命に仕掛けているパウダースノー対応の「ファットスキー」も少しずつ広がりつつあります。


ただし、盛り上がっているとは言っても、例えるならば0.1しかなかったものが1になったことで「すごい!10倍だ!」と言っているようなものです。
従来のゲレンデベースのスキーが100や1,000の単位で戦っているのに比べるとやはりボリューム感はまだまだ小さいものでしょう。


しかし、思い出しても見てください。
かつて「スキーナウ」というスキーブームを象徴するようなテレビ番組がありました。
その冒頭、誰もいない広大な山の斜面をたった一人でシュプールを描く海和俊宏。
その舞台はまさにバックカントリーでした。
当時そのイメージは一般スキーヤーの手の届かないものでしたが、今は「手が届きそうなもの」として演出されています。
さて、本当に「手が届く」世界なのでしょうか?

どうも基礎スキーの世界(SAJというべきか)は新たに提唱された理論、考え方に大騒ぎといった様子ですが、基礎スキーヤーに本当に求められるべきものとは一体何なのでしょうか?


このさい、SAJの提唱する理論や技術体系の妥当性は無視して考えます。
ずばり、申し上げましょう。
それは「言われた事を、それを言った人が納得する形で滑って見せる」ということです。
演出家に対する役者の役割と例えても構わないでしょう。
ただ、演劇の場合よりもスキーのほうが「演出側」の力が強大で、その意に沿わずに「演技」がほとんど成立し得ないところが異なります。
もっと言えば、観客の判断も「演出側」に大きく左右される世界と言えましょう。


ある意味、色々な能力が必要になりそうです。

スキー業界は景気が良くありません。
ここ何年か良くないといわれ続けてきましたが、また輪をかけて悪い状況です。
政府が「景気は底を打ち、回復基調にある」などと言っても、そんなのはリストラをやれる余裕のある企業がそれを実行しただけだと皆知っています。


スキーの本場、ヨーロッパのスポーツメーカーは規模の拡大と種目の多様化を進めるために既にグループ化が進んでいます。
欧州各地で地場産業的に発生したメーカーが寄り集まって大きな企業の体裁を整えてきているのです。
世界的にスキー業界は景気が良くないためにそうしないと効率が悪くてやっていられないようです。
ここでも経済の効率が世の中を動かしているという現実が現れています。


また今年は、ロシニョールとアトミックという大きなブランドが日本側の代理店から離れたために、輸入スキーグッズはヨーロッパ側の企業が日本での販売を直に行うという形が完成した年でした。
これは、ヨーロッパの人間が代理店から「奪った」のではなく、むしろ「双方メリットがあり、合意の上で」ということのようです。
これまた効率からの判断といえましょう。


こうした効率重視の影響は店頭にも現れています。
例えば10年前と比べて店に並んでいるものの種類が少なく感じませんか?
扱いメーカーの数も少なくなったような感じがしませんか?
一般的に全体の2割の種類の商品で全体の8割の額を稼ぎ出すといわれます。
もともと10種類扱っていたならば、上位2種類をしっかりやればよく、残り8種類は減らしても大勢に影響が無いとして、その種類を減らしにかかっているわけです。
全体額が低下しているから種類も減らしてしまえ、という論理です。
恐らく今後は各店が客層に合った商品を種類を絞って並べる時代が進んでいくと思われます。
色々な商品をチェックしたいスキーヤーは足を使わされる時代になるでしょう。

あけましておめでとうございます。
本年も皆様がスキーの真実に近づけるお手伝いができたらと思います。
新年最初の説教は「なぜ人はスキーをするのか?」ということを考えてみましょう。


スポーツ自体、一般人がそれを行う事にたいした生産性はありません。
スキーについては、自然を破壊すると文句を言う人までいます。
スキーを滑っても何かが作られるわけでもないし、余程上手くない限り鑑賞にたえられるものではないので見世物にもなりません。
ただ、必要なものを揃えたり、その場に移動し滞在したり、もっと言えば技術を習ったりすることで経済効果が出てくるのです。
ではスキーメーカーやスポーツ店、スキー場やスキー学校のためにスキーをしているのかといえばそんなことはなくて、普通は自己の満足のためにスキーをしているはずです。


一方、経済状況が厳しいため、ここ何年かスキーに行けなくなったという人は増えています。
一般人のスキーヤーはスキーをしなくなっても、その大多数は別にどうという事もないでしょう。
なにか日常生活に不便を感じることもないし、ちょっと我慢すればいいや、という感覚で済んでしまいます。
でも、好きな人はフラストレーションがたまるかもしれません。
そんな人は立派なスキー依存症と言えますし、その人達が現在のスキー業界を支えているのです。
つまり、依存症のような現象が人をスキーに駆り立てるといってよいでしょう。
次回は依存症の中身を考えていきます。

前回、人をスキーに駆り立てるのは一種の依存症が原因であるとお話しました。
何の依存症かといえば、よく言われるのは「非日常性」へのそれであるとはよく言われる話です。


現代人は生産的なことばかりしていては生きていけません。
非生産的な無駄な行為が必要です。
平たく言えば「趣味」や「気晴らし」がないと息が詰まってしまうということです。
では、なぜわざわざスキーなのでしょうか?


運動の要素を考えればそこには猛スピードで斜面を落下していくという…
そう、遊園地やテーマパークの絶叫マシーンと同じ要素があるのです。
さらに、それを行う場所は普段生活しているのとは全く異なる山という大自然の中です。(除く、屋内ゲレンデ)
古くから山に神を見出してきたくらいですから、人間の本能には自然の大きさを感じるプログラムが組み込まれていると考えるべきでしょう。
登山に深くはまる人が多いのはその本能が刺激されるからだと考えられます。
この上、レースなど大会に出れば参加者一人一人に舞台が用意される環境ですからさらに高度な非日常性を味わえます。


このように中毒性の高い刺激の組み合わさっているところがスキーの特徴なのではないでしょうか。
既にファッション感覚でスキーをする人がいなくなってきた以上、業界としてはその中毒患者を増やすか、中毒者の人数にまで規模を縮小しなければならないでしょう。

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